世説新語の寵禮の三と仇隟の七

てきとう訳です。
前に書き忘れましたが、原本を持っていないので底本とか書けません。いくつかのサイトで探してきたものです。
まあ新釈漢文大系のにも原文は付いているのだけど、訳まで読んでしまうので見ないことにした。
08/03/28 原本買いました。
こんなものでよければ。

王珣,郗超並有奇才,為大司馬所眷拔。珣為主簿,超為記室參軍。超為人多髯,珣短小,于時荊州為之語曰:“髯參軍,短主簿,能令公喜,能令公怒。”
續晉陽秋曰:“超有才能,珣有器望,並為温所昵。”


王珣、郗超はともにすぐれた才能が有り、大司馬(桓温)が目をかけて抜擢する所となった。珣は主簿となり、超は記室参軍となった。超はひげが多く、珣は人より小さい。時に荊州ではこのことを語って曰く:“ひげの参軍、ちびの主簿、上手く公(桓温)をして喜ばしめ、上手く公をして怒らしむ。”[一]


[一] 續晉陽秋曰く:“超は才能有り、珣は才能を望まれる有り、ともに温の親しみ深い者となった。”

仇隟の7
王孝伯死,縣其首於大桁。司馬太傅命駕出至標所,孰視首,曰:“卿何故趣,欲殺我邪?”
續晉陽秋曰:“王恭深懼禍難,抗表起兵。於是遣左將軍謝琰討恭,恭敗,走曲阿,為湖浦尉所擒。初,道子與恭善,欲載出都,面相折數。聞西軍之逼,乃令於兒塘斬之,梟首於東桁也。”


王恭が死ぬと、其の首を大桁に懸けた。司馬道子は命じて車を出させ、首を懸けた所に至り、首をじっと視、言って、「卿はどうして急いで、我を殺そうとしたのだ?」[一]


[一] 續晉陽秋曰く:“王恭は深く禍難を懼れ、抗表(上奏文をたてまつり天子に直言)して兵を起した。そこで〔朝廷は〕左將軍謝琰を遣わして恭を討った。恭は敗れて曲阿に走り、湖浦の尉に捕らえられた。初め、道子と恭は仲が善く、そこで(道子は)都を出て、直接会ってやり込めてやろうとたくらんだ。しかし西軍(西府桓玄等の軍)が迫っていると聞き、そこでしかたなく兒(倪)塘にて恭を斬らせ、東桁に首をさらさせた。”*1


*1:参考に、王恭伝抜粋

〔湖浦〕尉收之〔王恭〕,以送京師。道子聞其將至,欲出與語,面折之,而未之殺也。時桓玄等已至石頭,懼其有變,即於建康之倪塘斬之。(湖浦の尉は王恭をとらえ、首都に送った。司馬道子は王恭のまさに首都に至らんとしていることを聞き、会って直接話し、やり込めてやろうとおもい、未だ王恭を殺さずにおいた。しかしそのころ桓玄等はすでに石頭に至っており、変の起こることを懼れ、すぐに建康の倪塘にて王恭を斬った。)

08/03/23 追記
内容もここに直接載せれば言いじゃんって思った。だからそうした。
08/03/26 さらに追記
記事タイトルって直したくなるものだったんだね!