晋書成帝紀の訳2、咸和六、七年

六年春正月癸巳、(石勒の將)劉徵はさらに婁縣を侵略し、遂に武進を奪い取った。乙未、司空郗鑒の位を進めて都督呉國諸軍事とした。戊午、運漕(船で貨物を運ぶこと)を続けられず、王公以下は千余人の丁(成人男子)を派遣して、各々米六斛を輸送した
二月己丑、幽州刺史・大單于段遼を驃騎將軍とした。
三月壬戌朔、日蝕有り。癸未、詔して賢良直言の士を推挙させた。
夏四月、干ばつ。
六月丙申、以前の河間王顒の爵位を戻し、彭城王植の子の融を樂成王とし、章武王混の子の珍を章武王とした。*1
秋七月、李雄の將李壽が陰平に攻め込み、武都の氐の主導者楊難敵は〔李壽に〕投降した。
八月庚子、左僕射陸玩を尚書令とした。

七年春正月辛未、大赦した。
三月、西中郎將趙胤、司徒中郎匡術は石勒を馬頭塢にて攻め、これを攻め落とした。勒の將韓雍は南沙と海虞を侵略した。
夏四月、勒の將郭敬は襄陽を陥落させた。
五月、洪水あり。
秋七月丙辰、詔して、諸々の養う獣の類いに散財する者が多いので、〔獣を〕一切とり除かせた
太尉陶侃は子の平西参軍斌と南中郎將桓宣を遣わして石勒の將郭敬を攻め、これを破り、樊城を攻め落とした。竟陵太守李陽は新野、襄陽を攻め取り、よってその地を防衛した。
冬十一月壬子朔、太尉陶侃の位を進めて大將軍とした。詔して賢良を推挙させた。
十二月庚戌、帝は新宮に遷った。


*1:原文“復故河間王顒爵位、封彭城王植子融為樂成王、〔(中華書局の注)一二〕章武王混子珍為章武王。”
中華書局の注より“復故河間王至融為樂成王 封融文已見光熙元年(306)、此時融已死、不得再受封、「封」字下「彭城王植子融為樂成王」十字蓋衍文。說詳周校。又「復故河間王顒爵位」八字應在上年九月「徙樂成王欽為河間王」上、欽之徙封、即復顒爵位、而為融之嗣也、見河間王顒傳。”
訳「復故河間王〜融為樂成王の文について。融を封じるとの文はすでに光熙元年(306)に見えており、この時(咸和六年331)にはすでに融は死んでいて再び封じることは出来ないので、「封」の字の下、「彭城王植子融為樂成王」の十字は衍文(語句の中に誤って入った不要な文)だ。(つまり「封」は“章武王混〜”に掛かる。)周校に詳しく説かれている。また、「復故河間王顒爵位」の八字は前年九月の「徙樂成王欽為河間王」の上にあるべきで、欽を河間王にして、顒の爵位を戻し、融の跡継ぎとしたのだ。河間王顒伝を見よ。」
河間王顒伝より“詔以彭城元王植子融為顒嗣,改封樂成縣王。薨,無子。建興中,元帝又以彭城康王釋子欽為融嗣。 (〔306年に〕詔によって彭城元王植の子の融を顒の跡継ぎとし、改めて樂成縣王に封じた。薨じて、子は無かった。建興(313-317)中、元帝は又、彭城康王釋の子の欽を融の跡継ぎとした。)”」

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なんだかよく分からない文がいっぱい。

運漕(船で貨物を運ぶこと)を続けられず、王公以下は千余人の丁(成人男子)を派遣して、各々米六斛(石)を輸送した。
原文:以運漕不繼,發王公已下千餘丁,各運米六斛。
運ぶ食料がなくなるかして、王公以下が米六斛出すことになったのだと思うけども。


諸々の養う獣の類いに散財する者が多いので、〔獣を〕一切とり除かせた
原文:諸養獸之屬,損費者多,一切除之。
ペットとかのことですかね。

注ばっか長い。