晋書成帝紀を咸和五年(330)まで訳してたので

ドキュメントから発掘したやつにちょい書き足して載せてみる。咸和五年(330)、つまり蘇峻の乱平定とか前趙の終わりまでは訳したんで、こんなのでもないよりは良いかと思いますきっと。中華書局の注(名前の字が違うとか)はスルー。新字体旧字体混ざってるけどスルー。字化けはしないといいな。
赤字にしている“九分食一”は訳せませんでした。わかる方教えてもらえたらうれしいです。

晉書卷七 帝紀第七 成帝紀 和訳

成皇帝、諱は衍、字は世根、明帝の長子である。太寧三年三月戊辰、皇太子に立てられた。閏月戊子、明帝が崩御したので、己丑に即位した。大赦し、文武の位を二等ずつ増した。一人身の男女、身寄りのない者に一人につき絹の布八丈(18.8メートル)を賜った。〔明帝の〕皇后庾氏を尊び皇太后とした。
秋九月癸卯、皇太后が朝廷に出て、天子に代わりに政務をとった。司徒王導を録尚書事とし、中書令庾亮とともに朝政をあずかり補佐するようにした。撫軍將軍・南頓王宗を驃騎將軍とし、領軍將軍・汝南王祐を衛將軍とした。辛丑、明帝を武平陵に葬った。
冬十一月癸巳の朔日、日蝕有り。廣陵の相の曹渾に罪が有り、牢屋に入れられて死んだ。
咸和元年の春二月丁亥、大赦し、咸和に改元した。天子の許しがあって、五日の間人々が酒を飲めるようになり、一人身の男女、身寄りのない子供、老人には一人につき米を二斛ずつ賜った。首都から百里內の地はこれを一年続けさせるとした。
夏四月、石勒がその將の石生を遣わして汝南を侵略したので、汝南の人が內史の祖濟を捕らえて晋に叛いた。甲子、尚書左僕射の訒攸が亡くなった。
五月、洪水あり。
六月癸亥、使持節・散騎常侍・監淮北諸軍事・北中郎將・徐州刺史・泉陵公劉遐が亡くなった。癸酉、車騎將軍郗鑒に徐州刺史を引き受けさせ、征虜將軍郭默を北中郎將・假節・監淮北諸軍とした。劉遐の私兵の李龍、史迭が劉遐の子の劉肇を奉じて劉遐の官位に代わらせて郭默を防いだが、臨淮太守劉矯がこれを撃ち破り、龍を斬って首を首都に送った。
秋七月癸丑、使持節・都督江州諸軍事・江州刺史・平南將軍・觀陽伯應袪が死去した。
八月、給事中・前將軍・丹楊尹溫嶠を平南將軍・假節・都督・江州刺史とした。
九月、干ばつあり。李雄の將の張龍が涪陵を侵略し、太守謝俊を捕らえた。
冬十月、魏武帝の玄孫曹勱を陳留王とし、魏を継がせた。丙寅、衛將軍・汝南王祐が薨じた。己巳、皇弟の岳を吳王とした。車騎將軍・南頓王宗に罪が有るとして、誅殺し、その族を貶しめて〔姓を〕馬氏とした。太宰・西陽王羕を免官し、〔王位を〕降して弋陽縣王とした。庚辰、百里の內の五年以下の刑を赦した。この月、劉曜の將の黃秀・帛成が酇を侵略し、平北將軍魏該は衆をひきいて襄陽に遁走した。
十一月壬子、南郊にて大閲(三年ごとの軍隊の検閲)した。王侯の國秩(国からの俸禄)を改定して、九分食一
石勒の將の石聰が壽陽を攻めたが、〔晋は〕勝つことが出来ずついに逡遒・阜陵まで侵略されたので、司徒王導に大司馬・假黃鉞・都督中外征討諸軍事を加えてこれを防がせた。歴陽太守蘇峻がその將の韓晃を遣わして石聰を討ち、これを遁走させた。
このころ大干ばつがあり、六月から雨が降らずにこの十一月に至った。
十二月、濟㟭[山+上に民、下に日]太守劉闓が下邳の内史夏侯嘉を殺し、叛いて石勒に降った。梁王翹が薨じた。

二年春正月、寧州の秀才龐遺が義兵を起こし、李雄の將任回、李謙等を攻めたので、李雄はその將の羅恆、費鄢を遣わして、これを救った。寧州刺史の尹奉は裨將(副将)姚岳、朱提太守楊術を遣わして龐遺をたすけ、臺登にて戦ったが、姚岳等は敗績して、楊術が死んだ。
三月、益州地震あり。
夏四月、干ばつあり。己未、豫章に地震あり。
五月甲申朔日、日蝕あり。丙戌、豫州刺史祖約に鎮西將軍を加えた。戊子、首都で洪水がおきた。
冬十月、劉曜がその子劉胤に枹罕を侵略させ、ついに河南の地を攻略した。
十一月、豫州刺史祖約、歴陽太守蘇峻等が謀反をおこした。
十二月辛亥、蘇峻がその將韓晃に姑孰に入らせて于湖を破壊し殺し尽くした。壬子、彭城王雄、章武王休が叛いて、蘇峻へと走った。庚申、首都を戒嚴(行政権等を軍にゆだね、その兵力で警備)した。一時的に護軍將軍庾亮に節*1を貸し与えて征討都督とし、右衛將軍趙胤を冠軍將軍・歴陽太守として、左將軍司馬流とともに軍隊をひきいて蘇峻を防がせようとし、慈湖にて〔蘇峻と〕戦ったが、司馬流は敗れて死んだ。一時的に驍騎將軍鍾雅に節を貸し与え、舟軍をひきいさせ、趙胤とともに前鋒と為して蘇峻を防がせた。丙寅、琅邪王碰を會稽王に移し、吳王岳を琅邪王に移した。辛未、宣城内史桓彝と蘇峻は蕪湖にて戦い、桓彝の軍は敗績した。車騎將軍郗鑒が廣陵の相劉矩を遣わし軍隊をひきいて首都に赴かせた。

三年春正月、平南將軍溫嶠が軍隊をひきいて京師を救い、尋陽に軍をとどめ、督護王愆期、西陽太守訒嶽、鄱陽太守紀睦を遣わし前鋒と為した。征西大將軍陶侃が督護龔登を遣わし温嶠の節度(指令)を受けた。鍾雅、趙胤等は慈湖に軍をとどめ、王愆期、訒嶽等は直瀆に軍をとどめた。丁未、峻はみずから膻江を渡り、牛渚に登った。
二月庚戌、峻は蔣山に至った。領軍將軍卞壼に節を貸し与え、六軍(官軍)を率いさせたが、峻と西陵に戦って、王師(官軍)は敗績した。丙辰、峻は青溪柵を攻め、風があったので火を放ち、王師はまた大敗した。尚書令・領軍將軍卞壼、丹楊尹羊曼、黄門侍郎周導、廬江太守陶瞻みな殺され、死者は數千人に上った。庾亮はまた宣陽門の内で敗れ、遂に其の諸弟と郭默は捕らえられ、趙胤は尋陽に遁走した。是に於いて司徒王導、右光祿大夫陸曄、荀粔等は太極殿に帝を衞り、太常孔愉は宗廟を守った。賊は勝に乗じ麾(指図旗)、戈を帝の座に接し、太后後宮に突入し、左右の近侍は皆掠奪された。この時太官*2にはただ焼け残りの米が数石有るのみ、それを帝の膳に供えた。百姓号泣し、それが響いて都邑が震えるほどであった。丁巳、峻は偽詔をだして大赦し、また祖約を侍中・太尉・尚書令と為し、みずから驃騎將軍・録尚書事と為った。吳郡太守庾冰が會稽に遁走した。
三月丙子、皇太后庾氏が崩御した。
夏四月、石勒が宛を攻めると、南陽太守王國は叛いて勒に降った。壬申、武平陵に明穆(庾)皇后を葬った。
五月乙未、峻は石頭に天子を遷せと迫った。帝は哀泣しつつ車に乗り、宮中は慟哭した。峻は倉屋*3を以て宮とした。管商、張瑾、弘徽を遣わして晉陵を、韓晃を遣わして義興を荒らさせた。呉興太守虞潭と庾冰、王舒等は三呉*4にて義兵を起こした。丙午、征西大將軍陶侃、平南將軍溫嶠、護軍將軍庾亮、平北將軍魏該の舟軍四万は、蔡洲に宿営した。
六月、韓晃が宣城を攻めると、内史桓彝は力戰し、死に至った。壬辰、平北將軍・雍州刺史魏該が軍中で卒した。廬江太守毛寶は賊の合肥の宿営地を攻め、これを除いた。
秋七月、祖約は石勒の將石聰に攻めこまれ、衆がくずれて、歴陽に遁走した。石勒の將石季龍が蒲阪に於いて劉曜を攻めた。
八月、曜と石季龍は高候に戦い、季龍が敗績し、曜は遂に洛陽で石生を包囲した。
九月戊申、司徒王導が白石に遁走した。庚午、陶侃は督護楊謙に石頭にて峻を攻めさせた。溫嶠、庾亮は白石に軍隊をならべ、竟陵太守李陽は賊を南偏で防いだ。峻は軽装備の騎兵として戰に出て、馬から墜ち、そこで斬られ、衆は遂に潰滅した。賊の党は再び峻の弟の逸を立てて軍の主将とした。前の交州刺史張蓀は始興を占拠して反乱をおこし、廣州に進攻したが、鎮南司馬の曾勰等がこれを撃ち破った。
冬十月、李雄の將張龍が涪陵を侵略し、太守の趙弼が賊のため死没した。
十二月乙未、石勒は劉曜を洛陽で破り、これを捕らえた。
是歳、石勒の將石季龍は氐の主導者である蒲(苻)洪を隴山で攻め、これを降した。

四年春正月、帝は石頭に在ったが、賊の將匡術が苑城を以て帰順したので、百官は〔苑城に〕赴いた。侍中鍾雅、右衛將軍劉超が帝を奉って賊軍から出でんと謀り、賊に殺された。戊辰、冠軍將軍趙胤は將の甘苗を遣わして祖約を歴陽に撃たせ、これを破り、約は石勒のもとへと敗走し、其の將の牽騰は衆を率いて〔晋に〕投降した。峻の子の碩は臺城を攻め、又、太極東堂・祕閣を焼いたので、城は皆尽きた。城中は大いに飢え、米一斗の値が万錢になった。
二月、大いに長雨(三日以上の雨)が降った。丙戌、諸軍は石頭を攻めた。李陽と蘇逸は柤浦にて戦い、陽の軍が敗れた。建威長史滕含は鋭卒(すぐれた兵)を以てこれを撃ち、逸等を大いに敗った。含は帝を奉って溫嶠の舟に迎え、群臣は頓首(頭を地面に打ち付ける敬礼)、号泣して罪を請うた。弋陽王羕に罪が有り、誅殺した。丁亥、大赦した。当時、戦争による火災の後で、宮城はすっかり焼けてしまっていたので、建平園を宮とした。甲午、蘇逸は万余人を以て延陵湖から、呉興に入ろうとした。乙未、將軍王允之と逸は溧陽にて戦い、逸を捕らえた。壬寅、湘州を荊州に合併した。劉曜の太子毗*5とその大司馬劉胤は百官を率いて上邽に走り、関中*6は大いに乱れた。
三月壬子、征西大將軍陶侃を太尉・封長沙郡公とし、車騎將軍郗鑒を司空・封南昌縣公とし、平南將軍溫嶠を驃騎將軍・開府儀同三司・封始安郡公とした。そのほかの封拜(領地を授け諸侯とし、官位を授け任命すること)には各々違いが有った。庚午、右光祿大夫陸曄を衛將軍・開府儀同三司とし、高密王紘の封を彭城王とした。護軍將軍庾亮を平西將軍・都督揚州の宣城江西諸軍事・假節・領豫州刺史・鎮蕪湖とした。
夏四月乙未、驃騎將軍・始安公溫嶠が死去した。
秋七月、西北にて星が流れた*7。會稽、吳興、宣城、丹楊で洪水が起きた。詔して賊に遭った郡県の租税(年貢)三年分を返還した。
八月、劉曜の將劉胤等は衆を率いて石生へ攻めこみ、雍に駐屯した。
九月、石勒の將石季龍は胤を撃ってこれを斬り、進んで上邽を破壊し殺し尽くし、劉氏を滅ぼし尽くし、その一族郎党三千余人を生き埋めにした。
冬十月、廬山が崩れた。
十二月壬辰、右將軍郭默が平南將軍・江州刺史劉胤を殺し、太尉陶侃は衆を率いて默を討った。
是歲、天が西北に裂けた。

五年春正月己亥、大赦した。癸亥、詔して諸將の任子(父が高い官位にあるため官に任ぜられた者)を除いた。
二月、尚書陸玩を尚書左僕射とし、孔愉を右僕射とした。
夏五月、干ばつ、かつ飢疫(飢えに苦しみ疫病をわずらう)。乙卯、太尉陶侃は尋陽にて郭默を捕らえ、これを斬った。石勒の將劉徵が南沙を侵略し、都尉許儒を殺し、進んで海虞に入った。
六月癸巳、初めて田の税を、一畝三升とした*8
秋八月、石勒は皇帝位に就き*9、その將郭敬に襄陽を侵略させた。南中郎將周撫は武昌に退き帰り、中州の流人は悉く勒に降った。郭敬は遂に襄陽を侵略し*10、樊城に宿営した。
九月、新宮を造り、始めて苑城を補修した。甲辰、樂成王欽を河間王に転任し、封彭城王紘の子の俊を高密王とした。
冬十月丁丑、帝はみずから司徒王導の邸の、酒宴の大會に赴いた。李雄の將李壽が巴東、建平を侵略し、監軍毋丘奧、太守楊謙は宜都に退き帰った。
十二月、張駿が石勒の臣を称した。

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ここまで。

08/07/18 修正。携帯電話での字化けはあきらめてください。

*1:使者のしるしとして持つ旗のようなもの

*2:宮中の食事をつかさどる官

*3:たぶん倉庫?

*4:この時は会稽と、呉興と、丹陽か呉都かと思う

*5:戴記等では、“毗”では無く“熙”になっている。

*6:函谷関から隴関のあいだの地域

*7:災害や兵乱の前兆とされる

*8:田地に課す租税を減らしたらしい。つ占田・課田制 - Wikipedia

*9:通鑑などでは九月。

*10:原文“郭敬遂「寇」襄陽”は通鑑では「毀」、“郭敬は遂に襄陽を滅ぼし”だそうです。